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松山あげの歴史

干油あげ(松山あげ)は遊び心から生まれた?
あげの歴史を文献でたどると、江戸時代にはすでに愛用されていたと記されています。当時は、豆腐油あげと呼ばれており、精進料理などによく使われていました。ですが、生の油あげにかわる干油あげ(松山あげ)の製造が、いつの頃から、なぜ作られ始めたのかは定かではありません。
「案外、余ったものを使って、遊び心から開発されたのではないかと思います。あがりきっているので、結果的に風味がよく、日持ちがするものになったのではないでしょうか」
〓程野商店四代目、前社長、現会長 談〓
干油あげ(松山あげ)は全国でも珍しい愛媛の特産品です。
後に他地域でも類似商品が出てきましたが、松山では、明治の初めにすでに作られていたというから、どこかノスタルジアを感じますね。

この干油揚を私たちは1世紀を超えて作り続けています。
創業は明治15年。程野兵次郎がサトと結婚したのと同時に、夫婦であげの製造を始めました。
サトの実家は唐人町にあった川田商店。
ここでは干油あげを作っており、主に外地向けとして船舶におろしていました。
川田商店は松山で初めて貨物運送を手がけた店として知られています。
馬車や牛車が普通だった大正時代に、フォード車を導入して運送業を始めたというからそうとうハイカラだったのでしょうね。
さて、程野夫妻は川田のあげを学んで、萱町(かやまち)、現在の岡田印刷本社ビルの地に製造と卸の店を構えました。
この頃、干油あげは郊外の農家でも製造されていて、数件あったらしいのですが、以後、製造元は増えていません。
これには、作り方の難しさも原因だったようです。
干油あげは、普通の豆腐とは製法が異なる豆腐を3mmの厚さに切り、脱水し、あげて出来上がります。
一連の行程はかなりの熟練を要し、とりわけ、柔らかな豆腐を、包丁で数mmの厚さに切るのは芸術技ともいえるほどでした。
程野商店には20人ぐらいの従業員がいましたが、その中に10年、15年と修行を積んだ職人がザラにいたらしいです。
干油あげは軍隊の物資として重宝されました。
風味がよく、保存がきく常備品として支那事変でも大活躍!軍隊では、味噌汁や煮物に入れるなど、現在の使い方と変わりませんでした。
昭和2年、松山まで国鉄(JR)が開通。これを機会に、二代目は、干油あげを伊予の名産として売り出していきます。
九州や中国地方に出向き、販路を開拓。
次第に地元だけでなく、西日本一円の家庭でも食されるようになっていきます。
干油あげを『松山あげ』と命名、特産品の色あいが強まる
程野商店の戦後の復興は、「賃加工」から始まりました。
三代目社長は、昭和22年、萱町(かやまち)の元の場所で営業を再開し、持ち込まれた大豆で豆腐の加工を行い、その一部をもらう「賃加工」からスタートしました。やがて、あげの製造に戻り、昭和28年には、縁あって、干油あげが大阪の学校給食にも取り入れられることになったのです。
干油あげが、『松山あげ』と命名されるのは、昭和39年のこと。
「干したものと間違えるから・・・」という理由で、三代目社長がこの名をつけ、商号としました。
『松山あげ』の誕生です。名称を改めることで、松山特産と言う印象を強くつけられればという願いのもと、命名したのですが、これは見事に成功したといってよいでしょう。
北海道から沖縄まで、さらに海外でも愛される日本の味
『松山あげ(松山揚)』は大豆と菜種油を主原料にした自然食品です。
勿論大豆は遺伝子組み替え大豆等は一切シャットアウト。良質の蛋白質と油脂を持つ栄養価の高い食品として、また、ふるさとの味として、今、静かな脚光をあびつつあります。
「次第に生産量は増加しています。強いて営業活動をしてはいないのですが、お客様の口コミで増えているようですね、全国各地から”送って下さい”と書かれた手紙が届きますので、顧客リストは、北海道から沖縄まで広がっています。最近は”外国へ持って帰る”という声も耳にするようになりました。そういえば昔、私共にいた職人から”戦前ハワイの日系人向けに出荷していた”という話を聞いたことがあります。懐かしい日本の味が喜ばれたのでしよう」
〓四代目、前社長、現会長 談〓
現在、松山で製造しているのは『程野商店』だけ。生産された8割は県外に出荷されています。平成12年、西暦2000年ミレニアムの年、五代目が社長に就任しました。
「今後はお土産や贈答品などとしての展開もはかり、またインターネットなども使用し、迅速に、かつまた、きめ細かく顧客ニーズに対応、その他『松山あげ』を使った料理レシピ等も充実していきます」
〓現社長 談〓
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